スーパーみなとや 三島サイダーに関して


サイダー写真 八戸市の海岸線に湧く地下水、通称「三島の水」を使用して作られております。
この地には、北上山系最北部の石灰岩が豊富な地層がひろがっており、漁業はもちろんのこと、近代八戸の発展はセメント原料の切り出し、日の出セメント工場での製品化が町の発展を支えてきました。
国の重要港湾整備の指定も、堤防を作る為のセメント材料の確保が容易な背景があったからであります。
 さてこの「三島の水」古くから海岸地域では生活用水として使われており、現在でも八戸市上水道の重要水源で、河川水源と違い夏は冷たく冬は暖かい、この水源の供給地域の皆様は「三島の水」と自慢する訳であります。
石灰層の地下水脈をくぐり(当然硬水の部類に入ると思います)ミネラル豊富な水から作られた三島サイダーは、他のサイダーとは違うのであります。案外この地下水脈、全国的に有名な岩手県岩泉の竜泉洞・山形村の内間木洞と地下水脈が一緒なのかもしれません。

 さて、みしまサイダーは昭和30年代まで市民の喉を潤したわけでありますが、戦後コカコーラの日本上陸と共に、八戸地方にも30年代後半には平凡パンチ・アイビールックと共に、一気にコーラが広がり、みしまサイダーの黄金時代は終焉した。
大正ロマンから戦中戦後を通じ、サッカリンの甘味と喉越しの良いハイカラな飲み物はコーラを始めとして、今の炭酸飲料にその座を明け渡す。
考えるに、みしまサイダーの味を知っているのは、45歳以上の年代と思われます。
 更に、バナナサイダーに関しては30年代まではバナナそのものが高級品、今の時代では考えられない存在でした。
バナナを食べられるのは、病気か遠足や運動会ぐらいのもの、これが化学の発達により、いか様な風味も可能となり、高嶺の花バナナと炭酸の喉越しが一瓶で味わえる、二度得したようなもので、海岸地区の根強い需要はこのあたりにあるのではないでしょうか。

シトロン箱の写真 昔の旧八戸市内の子供たちは、おこずかいを握り締め、仲間と製造元の八戸製氷冷蔵まで片道6キロ以上を歩いて行ったものです。
汽車やバスで製氷まで行ったのでは、お金が足りない、目的地までたどり着き、みしまサイダーを飲む。
この一瞬の為に払った労力は一気に吹っ飛び至福のひと時を味わう。
「行きはよいよい帰りは辛い」、子供達は次第に寡黙になり、とぼとぼと来た道をたどり、誰しも口に出しては言わないが「二度と来ね」と思いながら、飲んだサイダーはすべて汗になり、何のために三島くんだりまで行ったのか解らぬ事となる。
そして、翌年も同じ事を繰り返す。
 又、内陸部の田園地帯では、田植え・稲刈りと共に、手伝い人があつまる重要農作業の一服休みには、サイダーの存在は南部煎餅と共に欠かせないものであった。
意外に、銭湯の存在も見逃せない、番台があり、そこには栓抜きがぶら下がり、風呂上りのサイダーの味は格別であった。
牛乳やコーヒー牛乳よりもみしまサイダーの需要が多かった。
親父と銭湯に行ったときは必ずおねだりをし、サイダーを飲む、これは勿論男同士二人だけの秘密であり、家に帰ったならおふくろや姉・妹には絶対口外しない。
 かなり私的な見解になりましたが、八戸人には三島サイダーに対する遺伝子が存在する。

バナナサイダー箱の写真 丁度20年前になるが、「当社で三島サイダーを売ろう」との提案をしたのは、社長の冨田照雄である。
学生時代、「深夜放送のオールナイトニッポンを聞きながら飲んだ、あのサイダーの味を売りたい。我々、地域密着を目指すローカルスーパーにとってなにが地域密着なのか考えろ。」この一言であった。
製造元の八戸製氷冷蔵株式会社さん、本業は三島の水を使って氷の製造がメイン、サイダー事業は氷の需要が落ち着き、暇な時の雇用対策のようなもの。夏の盛りにはサイダーを冷やす氷も一緒に売れる、まさに水商売そのものである。
 昭和40年代以降、需要が下降の一途を辿るなかで、殆どの地サイダー業者は廃業した、そのような状況にあり、休止する事無くつくり続けてくれた製氷さん、本当に有難い存在でありました。
 早速、工場見学をさせてもらい販売条件等の調整が済み、誰しも忘れていたみしまサイダーが当社の店頭に並んだ訳であります。

 ボトルリターン、飲み終わった空瓶15円で引き取るシステム、使い捨ての資源大国とは違い、我が日本にとっては素晴らしいリサイクル事業であります。

 「常にみなとやはお客様の為に」と「地球にやさしく」をテーマに、
ご奉仕の精神をもって、これからも商品開発を続けて参ります。


ホーム